Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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資本主義とは何か;綱覇佳秋氏との対話(改訂版):超地政学的ゲームの行方 2017.2.02-より一部改訂して転載
永澤 護·2017年4月27日木曜日
予定説を核とするカルヴァン主義は、カントのいう #統制的理念 としての不完全性または行為の完結不可能性において、資本主義の病理を表現しかつ生産している。ウェーバーはやはり正しかったといえるだろう。「資本主義」という公理系を具体的に言い換えれば、 #債務システム としての #信用創造 システムに対応する。

個々のカルヴァン派プロテスタントの行為がちょうどゲーデルの #不完全性定理 が適用される無矛盾な公理系における個々の命題に見える。(無論原則としては一種の比喩に止まるが。)公理系全体としては完結不可能な、すなわち個々の行為のどれか少なくとも一つが神という公理系の頂点から見たその「真(正しさ)」という点において決定(証明)不可能だという意味で。「救われる者に成りきる」のは行為主義だからこそ不可能に見える。

行為の系列としては、すなわち行為し続けている限りは体系=資本主義システムはあくまでも無矛盾だが、際限のない、終わりなき行為の系列を生み出し続けることにおいてしか資本主義というシステムはサバイバルできない。すなわち少なくとも誰か一人、あるいはいずれかの行為の主体(個人・企業あるいは法人・政府)が債務を引き受けるという行為が存続しなければならない。

「債務を引き受ける」とは、狭義には銀行から金を借りてその金を銀行に預けるという行為を意味する。(もちろんこれは融資という形では現象的にはデジタル記号の変化=有限的な数値計算:資本計算としての #算術 でしかない。) 少なくても誰か一人、あるいはいずれかの行為の主体(個人・企業あるいは法人・政府)が債務を引き受けるという行為(数値計算:資本計算)が存続しなければならない。信用創造システムの作動に必要な条件として。

その限りにおいて、資本主義というシステムの核をなすこの「債務者となる行為」の、システムにとっての真(正しさ)は決定(証明)不可能である。システムにとっての真(正しさ)が決定(証明)されるとすれば、それはこのシステム自体が何か他のもの(何か他の公理系)に移行変容するとき、すなわち真(正しさ)をそれに即して決定すべきシステムが不在となるときだからである。


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